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沼津の歴史 もっと知りたい語りたい

沼津ふるさとづくり塾-活動報告・予定

第1 回 4月19日(日)
14:30~
講師:沼津史談会会員 
文学研究家 岡野 久代 氏
テーマ:明石海人
一愛生園日記から読み解く歌集
『白猫』の成立
4月19日(日)の沼津史談会総会記念講演では、史談会会員で文学研究家(元日本大学短大講師)の岡野久代氏が、ハンセン氏病により39歳で逝った歌人明石海人(あかし かいじん)の、すぐれた作品がどのようにして生まれたのかについて、当時のハンセン氏病対策の状況や、闘病中の海人が出会った人びととの交流などに触れながら、講演しました。

明石海人(本名 野田勝太郎)は明治34年現在の沼津市片浜に生まれ、現在の県立沼津商業高等学校を卒業しました。
現在の沼津市や富士市で小学校教員をしていた海人は26歳でハンセン氏病の診断を受ける。その後、兵庫県や和歌山県で 転院しながら治療を受けた海人は、昭和7年に国立癩療養所長島愛生園(岡山県)に入所し、そこで光田健輔園長に出会います。
光田氏は、わが国のハンセン氏病治療の第一人者と評される一方、患者の隔離政策を進めたことで人権的見地からの批判も受けました。
岡野氏は、こうした光田園長のふたつの側面評価を紹介しながら、病が進行するなか、歌人「明石海人」が光田氏から大きな影響を受け、 仕事に没頭する光田氏のすがたや、その心に触れて詠んだ歌が歌集『白描』に収められていることを指摘しました。
また、ハンセン氏病療養関係の文学が「世界記憶遺産化」される可能性にも言及、このいた、視点からも海人の作品を 「復生の文学」として高く評価すべきだと述べました。

講演の締めくくりに、岡野氏は海人の作品に込められた「音の調べの美しさ」を聴いてもらいたいと、自ら『白描』序文を詠誦し、 特別ゲストのジャズフルート奏者、YUKARIさん(沼津市出身、米国ニューヨーク在住)がフルートで自作曲による伴奏をしてくれました。

「癩は天荊である。」ではじまる、明石海人「白描」の序文。掲載した岩波文庫「明石海人歌集」の1ページ。


第2回 5月16日(土)
13:30~
講師:沼津市立歴史民族資料館
 館長 鈴木 裕篤 氏
沼津街中「歴史ウォーク」
三枚橋城・沼津城・兵学校跡地・沼津病院跡地 ほか
「市民公開講座」第2回は、沼津市立歴史民俗資料館の鈴木裕篤(すずき ひろあつ)館長を講師に招いて、沼津駅周辺の史跡の所在についての講演を聴きました。そして講演のあと、三枚橋城、沼津兵学校跡地、旧沼津病院跡地、西周旧居跡などを巡り、おもに沼津近世史の址を探訪するウオーキングも開催し、200年以上まえの地図に描かれている城や、西周が起居した邸を想像しながら街あるきを楽しみました。
参加者のみなさんは、曇りでウオーキングに最適な午後の時間、市内を漫ろ歩いて、市内の多くの史跡保存や考証に携わった鈴木講師の興味深い説明に聴き入っていました。
城岡神社境内にある「沼津兵学校記念碑」の前で鈴木講師の話を聴く参加者のみなさん

大手町の沼津城跡で鈴木講師の話を聴く参加者のみなさん

沼津兵学校の附属小学校(代戯館)跡で、維新直後の西周の雄大な構想をあらためて思う。

第3回 6月20日(土)
13:30~
講師:国立歴史民族博物館
教授 樋口 雄彦 氏
箱館戦争と榎本武揚
一静岡藩・沼津兵学校とのかかわりを中心に
 榎本武揚は幕末から明治に生き、幕臣でありながら、明治新政府のもとで閣僚なども歴任しました。江戸開城の際、榎本も幕府艦隊を新政府に渡したのち駿河に赴くよう命じられましたが、これに従わず北海道への脱出を図ります。これを察知した徳川家は幕府陸軍幹部らが榎本に、徳川の命に従うよう説得し、これに参加したひとりが江原素六でした。しかし、説得は不調に終わり、榎本は箱舘に向かいます。このときの説得工作の様子は、江原の死後出版された『急がば廻れ』(1918年 東亜堂)に記されています。明治政府は駿河に移ったばかりの徳川家に榎本軍を討伐させようとしますが、この計画は、幕臣同士のいくさを回避しようとした勝海舟の工作などで、立ち消えとなりました。
 結局、榎本軍は新政府軍に敗れ、多くの旧幕臣は謹慎生活を経て静岡(徳川)藩に戻されますが、静岡藩では箱舘からの帰還者を受け容れる余裕などなく、技術や知識のある者は他藩に「御貸人」として派遣され、各地の政治や興業に貢献したのです。またなかには、沼津兵学校や兵学校教員の私塾で生徒として新たな教育をうけ、明治新政府のもとで働くようになった者もいました。


第4回 7月18日(土)
13:30~
講師:台東区立中央図書館
郷土・資料調査室専門員 平野 恵 氏 
原・植松家の帯笑園と江戸の園芸
「帯笑園」見学会
原・植松家の帯笑園と江戸の園芸 原の植松家は江戸時代、素封家として邸地のなかに庭園を造らせ、代々受け継いできた。幕末から明治にかけて、本草学の視点からも関心がもたれるほどさまざまな品種の植物を育て、多くの本草学者が訪れ、様子を記録している。また東海道沿いという立地から、歴史上有名な人びとも立ち寄ったことが分かっており、徳川慶篤やシーボルト、海保青陵などもの名前もある。植松家は訪問記録を残しており、第一級史料として評価される。植松家は鉢植の販売などは行わなかったが、所有のめずらしい植物と交換にべつの珍種を入手したりして育てたようである。「むろ」とよばれる温室など、当時の植木屋が店舗として造ったといわれる設備を充実させ、江戸時代の園芸技術史の視点からも重要な史跡として評価できる。
なお、帯笑園の名前の由来はながいあいだ分からないとされてきたが、近年、植松家に伝わる、海保青陵が書いたとみられる文辞に六代植松蘭渓の人がらに敬意を表して命名した旨が書かれているのを、宮下義雄氏(前沼津市立図書館長)が発見された。(『沼津市博物館紀要』28号/平成16年)  






第5回 8月15日(土)
13:30~
講師:はんだ郷土史研究会
西 まさる 氏  
郷土史研究と地域づくり
榊原弱者救済所などの史実発掘をめぐって 
 愛知県半田市で活動する「はんだ郷土史研究会」は平成17年に創立されました。毎月1回、地元で定例会「ふるさと講座」を開いており、さまざまな立場の人々が、郷土史について、身近な話題をふくめていろいろなテーマで発表をしています。
 この会の特色のひとつは、埋もれかけている郷土史を発掘し顕彰する活動があることです。戦前、半田市に存在した福祉施設「榊原弱者救済所」を記念・顕彰する事業では、地元の自治会や行政と共に、史跡記念公園の開設・整備に取り組みました。「榊原弱者救済所」は明治32年(1899)、地元の侠客、榊原亀三郎がはじめました。貧しさのため捨てられた子どもや孤児、重病・障害があって家を出された老人・重病人、刑期を終えて出所したのに行き場のない出獄者、不幸な身の上の女性など、「弱者」とともに半田市鴉根地区の山野を開墾し、農業生産に従事させるなどして生計の途をつけ社会復帰を支援しました。亀三郎が急死した後の昭和6年(1931)に施設が閉鎖されるまで、15,000人を超える人々が利用したそうです。
 講師の西氏は、「社会福祉や更生保護の考えが普及する以前に、地味だが先進的な活動をつづけた亀三郎の偉業を後世に伝えていかねばならない。」と郷土史研究活動への意欲を示しました。

半田には、童話で有名な新美南吉の生家が残されています。


第6回 9月19日(土)
13:30~
講師:マルナカインターナショナル
中尾千恵子 氏  
小説『つるし雛の港』と日露交流
の原点、戸田の石丁場 
 安政2年(1855)、難破して船を失ったロシア人と戸田の船大工が協力して建造した日本初の西洋式帆船が、 約3ヶ月の突貫工事で竣工しました。戸田村民の好意に感激したロシアのプチャーチンは新しい船を「ヘダ号」と命名しました。この話を題材に今回の講座では、 小説『つるし雛の港』の著者の中尾千恵子氏が、昨年の「戸田供養祭」の様子や、ウラジオストクで開催される日露交流会などについて、ビデオ映像を交えて説明しました。また、講演会の前には、プチャーチンが滞在した宝泉寺や、擬洋風建築で知られる松城邸、造船郷土資料博物館(御浜岬公園)を訪れ、プチャーチンを偲ぶ史料や、 その後の戸田とロシアの交流を示す品々を見学しました。

 また、講演会では、戸田史談会会長の水口淳氏が、江戸城の石垣に使われた多くの石が戸田から切り出され、海をわたって江戸まで運ばれた史実を紹介されました。 そして江戸期、沼津とその周辺に数多くあった石丁場と江戸城の石垣との関係を、石面の刻印を手掛かりに読み解くという、興味深いが根気の要る調査についても話をされました。
プチャーチンに貸与された執務机(宝泉寺)
戸田は御浜岬に囲われた良港です。
戸田地区センターに展示されているヘダ号の模型
「戸田供養際」を動画で紹介する中尾千恵子氏
小説『つるし雛の港』(中尾ちゑこ著)
江戸城の石垣の産地調査を説明する水口淳氏
石丁場からおろされた石は船2艘で海中に吊るすようにして運んだ